奈良時代から文化の中心地であった興福寺。登大路ホテルはその旧境内にあります。
2025年の晩夏、国宝 北円堂を間近に臨むスイートルームに、興福寺前貫首の多川俊映寺務老院をお迎えし、武者小路千家第15代家元後嗣の千宗屋さんによる特別茶会が行われました。2018年には300年ぶりの中金堂再建落慶法要で、5日間にわたり献茶をなさった宗屋さん。旧知のお二人による、和やかで知的な茶会の一端をお届けします。
◆茶道具は興福寺ゆかりの古材で
〈千〉 北円堂と南円堂の甍が並んで見えるスイートルームですから、これ以上の景色はないということで掛物代わりにしました。ほんとにいい場所ですね、ここに来なければ見えない景色です。
それでは、まずはお菓子をどうぞ。今日のお菓子は「千代見草」、2018年10月の中金堂落慶法要のお献茶の折お供えとお茶席で使わせて頂いたものを、久々にならまちの樫舎(かしや)さんにお作り頂きました。では、ゆっくり始めさせていただきます。
〈千〉 どうぞ薄茶一服お召し上がり下さい。ちょっと熱いので、お気をつけください。
〈多川〉ちょうどいいです。
〈千〉 ありがとうございます。この奈良三彩茶碗で飲んで頂いたのは初めてですね。2018年にお納めした、中金堂の献茶道具の試作なんです。
〈多川〉小ぶりでいいですね。
〈千〉 このような洋間でちょっと一服するのに、雰囲気もよく合うかもしれません。二碗目もガラスの白瑠璃の天目で、同じく中金堂の献茶道具の試作です。
〈多川〉この茶箱は「花の松」ですな。
〈千〉 はい。2018年の興福寺中金堂落慶法要のあと、多川猊下(げいか)からお礼にと頂いたものです。作られてからかなり経ちますね。「興福寺」と「花の松」の印が押してあります。
[東金堂と五重塔と花の松(たましん地域文化財団デジタルアーカイブ)]
〈多川〉うちの父親(多川乗俊興福寺元貫首、1904〜1984)のお師匠さんが作ったものです。毎日拭いていましたよ。
〈千〉 東金堂の前にあった「花の松」は、弘法大師が植えられたという伝承がありました。
〈多川〉昭和12年に枯れて、伐ったんです。
〈千〉 そのときに出た材で作られて、しかもお父様も大切に使われていた茶箱ということで、今日はいい機会を頂きました。
棗(なつめ)は法隆寺の古材で、愈好斎(ゆうこさい:武者小路千家第12代 千聴松、1889〜1953)の好みでできているものだそうです。茶箱の寸法にも合います。茶杓は東金堂の古材、愈好斎が昭和15年にお献茶をした際に頂いたものではないかと。
〈多川〉そうだね。
〈千〉 東金堂の前にあった「花の松」、その茶箱と同じ時期にできた東金堂の古材を使った茶杓ということになりますね。
◆天平の息吹を現代に、中金堂落慶法要
[興福寺中金堂落慶法要 2018年10月]
〈多川〉今から考えると、中金堂の落慶法要で5日間の献茶、ようやってくれました。
〈千〉 本当に。あのあとコロナもあり、世の中がガラッと変わりましたね。5日間よく献茶されましたとおっしゃいますが、それ以前によう建てられましたね(笑)。
中金堂落慶法要の献茶をする際、多川猊下のご要望が、「天平の文化空間の再構成」でした。「だから桃山や江戸時代のお茶のまんまじゃ面白くないんだ」と。伽藍に合うようなお茶のかたち、というご要望ですから、楽茶碗などいわゆる今までのお茶道具ではなく、新たな意匠のもと一式新調して仏さまにお茶を差し上げるために、奈良時代のものをヒントにしました。
この緑釉の奈良三彩は、その技法を持つ岐阜県多治見市の「幸兵衛窯」の加藤亮太郎さんにお願いしました。奈良三彩の技法で伝統的な天目茶碗というのは、今までなかったものです。
もう一つは、奈良のガラス作家、津田清和さんの白瑠璃碗です。正倉院に白瑠璃碗というカットガラスが伝わっていて、ササン朝ペルシャから日本にわたり、聖武天皇の傍らにあった御物です。いずれも天平時代に実際使われていた器のデザインを元に茶道具に翻案しました。
◆ 真剣に向き合って生まれる遊び心
〈千〉 テーブルの「天遊卓(てんゆうじょく)」は、現代の住空間で違和感なくお茶がたのしめるようにと私が2007年に考案したものです。お茶室で膝を突き合わせているように、同じテーブルで主客が囲めるデザインです。懐石も召し上がっていただけます。高さも座敷でお道具を扱っている感覚に近い状態です。
〈多川〉時代と共に、ですな。
〈千〉 そうですね、生活が変化していく以上、お茶もゆるやかに変わっていかないと。だからこそ、ずっと続いてきた部分もあると思います。
〈多川〉いま思い出しましたけど、「天平の文化空間の再構成」ね、そこでお茶を点てていただくためにいろいろ考えていただいて、「それはそうと、茶人羽織でいいの?」とか言いましたね(笑)。
〈千〉 そうそう、「タキシードでも」ってね(笑)。そこまでは攻め込めませんでしたけれど、次なる宿題を頂いたと思って。いま修理中の五重塔落慶のときには、上から降りてくるとか。
〈多川〉うんうん。クレーンでね(笑)。
◆唐へのあこがれ、「唐院」
〈千〉 ところで、利休さんは京都と堺を行き来するときに奈良を経由したこともあったと思いますが、今でもJR大和路線に乗って大阪へ行くと、山と山の間がひらけていて。法隆寺があの場所にあるのは、奈良に入ってすぐのところだからですね。海からきて、最初に落ち着く場所があのあたりだったのかなと。四天王寺も海の際でしたから。
〈多川〉大陸に対するあこがれ、特に奈良時代の日本人には、唐に対するあこがれがありますね。
〈千〉 「唐へのあこがれ」といえば、登大路ホテルのあるこの場所が、唐の文物を持って帰ってきて納めていた興福寺「唐院」跡ということで、今日は唐時代の銀の合子(ごうす)を香合に見立ててお持ちしました。
〈多川〉細かく打っていますね。
〈千〉 ええ。中金堂の鎮檀具なんかも、唐の銀を結構使っていますよね。こちらは「興福寺銀襴(ぎんらん)」という興福寺の仏さまの前に敷く戸帳(とちょう)を再現した布です。
[唐院跡にある登大路ホテル]
〈多川〉ここはね、最初は遣唐使の玄昉(生年不詳〜746)が帰ってきたときに五千余巻の経典を納めたので、「唐院(とういん・からいん)」と呼ばれた。そして時代がくだるにしたがって、興福寺の管理寺務所になるんですね。江戸時代になると、住持(じゅうじ)は西大寺系の律僧が入るんですよ。特に幕末あたりの承仕(じょうじ)だった中村尭円(ぎょうえん)・雅真(がしん)親子が非常にしっかりしていて、見識もある。奈良の骨董はその人たちの目が入っていると絶対本物だという。神仏分離令で混乱した興福寺を、陰になって支えた人ですね。
◆會津八一の「仏の庭」
〈多川〉會津八一(1881〜1956)の歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』の中に、「仏の庭」という言葉が出てくるんです。『南京新唱』は明治の末から大正にかけて、八一が最初に奈良に来たときに詠んだものです。そこに、興福寺の歌が一首あります。
興福寺をおもふ
はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり
ほとけ の には に はな さく らし も
會津八一『南京新唱』
[興福寺本坊前の會津八一歌碑]
八一の歌は、東大寺、唐招提寺、薬師寺、斑鳩の法隆寺が圧倒的に多いんです。癪な話でね、興福寺はこの一首だけなんです。ほとんど無視されていると最初は思っていた。ですが読むと、「仏の庭」と出てくる。
どういうことかと言うと、明治政府が寺社の境内地を公園利用したわけです。奈良の奈良公園、京都の円山公園、東京の上野公園、全部お寺の境内を召し上げて公園にした。国が強引に人中心の公園にしたのを、會津八一は仏の庭だとピシャリと言っている。慧眼というか、見識ですね。
◆平城京を見わたす北円堂
[国宝・北円堂]
〈多川〉興福寺の境内をよくご覧になるとね、東に春日山(かすがやま)、その前でもう一回隆起して御蓋山(みかさやま)、さらに西の麓が丘陵地を形成しながら西へ西へと伸びている。そして今見えている北円堂と南円堂の二つの円堂のすぐ西側がガタっと下がって、そのあとは自然に下がって平城京になるんです。ここは高みにある。北円堂は、興福寺をつくった藤原不比等(659〜720)の廟です。北円堂から西を見下ろしたら、平城京が一望のもとだったんですね。
そして、この丘陵地自体が、全部「春日野(かすがの)」なんですね。東京でいえば「武蔵野(むさしの)」、「野」とは日本語で「傾斜のある土地」を言うんですね。真っ平なのは「平原」です。ここから東にある春日大社とうちの境内の高低差は50メートルほどあるんです。でも、歩いているとそんなに違和感なくてね、徐々に下がってきている。
[西国三十三所第九番札所でもある南円堂]
〈千〉 北円堂は不比等の廟とのことですが、南円堂はどうですか?
〈多川〉藤原内麻呂(うちまろ、756〜812)を追慕するため、813年に息子の冬嗣が作りました。藤原氏の人がお参りにくると、中金堂ではなく最初に南円堂に参るんです。
〈千〉 円堂といっても実際は八角なんですよね。
〈多川〉浄土がそうだったというんです。八角の山ということです。
〈千〉 ここはいわば、浄土を見渡す場所なんですね。浄土というのは「仏の庭」、まさに仏国土ということだから。
◆「信仰の動線」をふたたび
〈千〉 今後、五重塔の大修理のあとは…。
〈多川〉中金堂を手掛けたものとしては、やっぱり門が必要だなと。ただ、南大門の再建はちょっと難しい。けれども中門があればね、入ると中金堂がある。するとそこに「信仰の導線」ができるわけです。たとえば、永井荷風が書いているんですが、ヨーロッパの教会はいきなり教会でしょ。でも、日本はどんな小さいお寺でも、門があって本堂がある。日本の建築というのはそういうものだと。潜(くぐ)ることによって、気持ちを整理させていく。荷風は慧眼ですね。
[興福寺中金堂]
〈千〉 境界だと。お茶室でも同じです。露地があって、進んでいく中で心を整えて蹲(つくばい)で手と口を清めてからお茶室に入るわけです。そうするとまた中金堂がよりしっかりと中心として存在する感じが出てきますね。
〈多川〉ええ、それで回廊の一部分でもね、ちょっとでも袖をつければね。
〈千〉 そこまでは、ぜひ見届けていただきませんと。
〈多川〉いや、もう見届けなくてね。この頃は小さな声で、低い声で、若い者に中門を作れ作れと言っているんですよ(笑)。
多川俊映(たがわ・しゅんえい)
興福寺寺務老院
1947年奈良市生まれ。1989年から2019年の30年にわたり興福寺貫首、法相宗管長を務め、300年ぶりの中金堂再建など伽藍の復興に尽力。現在も興福寺仏教文化講座をはじめ、興福寺の教学である唯識(ゆいしき)について人々に分かりやすく講話を続けている。
『唯識入門』『いのちと仏教』『奈良興福寺 - あゆみ・おしえ・ほとけ』『心を豊かにする菜根譚33語』など著書多数。
千宗屋(せん・そうおく)
茶道 武者小路千家(むしゃこうじせんけ)第15代家元後嗣
1975年京都市生まれ。2003年後嗣号「宗屋」を襲名、斎号は「隨縁斎」。
2007年に現代の生活様式に合わせた茶机「天遊卓」を考案。文化庁文化交流使として渡米、ニューヨークを拠点に茶の湯文化の普及に努めるなど、国内外で幅広く活躍。
著書に『もしも利休があなたを招いたら』『茶: 利休と今をつなぐ』『千 宗屋の和菓子十二か月』など。
法相宗大本山 興福寺(ほっそうしゅうだいほんざん・こうふくじ)
710年に平城遷都とともに藤原不比等が現在の場所に興福寺として建立。藤原氏の氏寺として、また南都七大寺の一つとして、隆盛をきわめた。明治時代の神仏分離令ののち、寺領は没収され奈良公園に。現在は「天平の文化空間の再構成」を合言葉に、境内整備事業が続く。奈良のランドマーク「五重塔」は約120年ぶりの「令和の大修理」中。国宝建造物が4棟、国宝仏像は18体で日本一を誇る。
興福寺 中金堂(ちゅうこんどう)
藤原不比等により創建、7回の焼失と6回の再建を繰り返し、江戸末期に「仮堂」再建。平城遷都1300年を迎えた古都奈良の象徴として、多川俊映寺務老院(当時は貫首)の指揮の元、2018年に300年ぶりに再建、5日間にわたる盛大な落慶法要が営まれた。