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2023.08.02

五劫院―アフロの阿弥陀さまと二人の大勧進

綴る奈良
五劫思惟阿弥陀仏坐像

正倉院の北、佐保川の南に位置する五劫院(ごこういん)は、東大寺大仏再興に奔走した二人の高僧、重源(ちょうげん)上人と公慶(こうけい)上人ゆかりのお寺です。本尊は国の重要文化財に指定されている「五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀仏坐像」。アフロヘアーの阿弥陀様として近年特に人気の高いご本尊です。非公開のため普段の拝観には予約が必要です。

五劫思惟阿弥陀仏坐像_アフロヘアーのような螺髪が印象的

ー アフロヘアーのような螺髪が印象的

| 鎌倉期大仏再興を果たした重源上人が開山

五劫院のある奈良市北御門町(きたみかどちょう)の名前は、東大寺の北門があったことに由来します。この地に五劫思惟阿弥陀仏を本尊とする五劫院を開山したのが、俊乗坊(しゅんじょうぼう)重源上人(1121~1206年)です。重源が生まれたのは、今からちょうど900年前、平氏や源氏といった武士が台頭した平安時代末期でした。13歳で醍醐寺に入り、四国、大峯、白山などで山岳修行に励んだ重源は、3度宋へ渡りますが、当時は平清盛が太政大臣になるなど、平家全盛の時代でした。

五劫院本堂

ー 寄棟造本瓦葺の五劫院本堂(1642年再建)

| 想像を絶する時間を表わした「アフロヘアー」

五劫院縁起によると、五劫思惟阿弥陀仏は重源が宋から持ち帰った3体の像の1体だと伝わります。1体は東大寺勧進所の五劫思惟阿弥陀仏坐像、残る1体は行方不明ですが、全国に十数体しかない五劫思惟阿弥陀仏の中で、五劫院のものは最も古く大きく、螺髪以外のほぼすべてが一木造りです。制作者や年代には諸説がありますが、宋文化の影響を色濃く受けた様式の、大変貴重な仏像であることに変わりはありません。

五劫思惟阿弥陀仏

ー 独特の佇まいは宋風といわれる

「五劫思惟阿弥陀仏」とは、宝蔵(ほうぞう)菩薩が悟りをひらき、阿弥陀如来になった瞬間のお姿だといわれます。「未来永劫」などにも使われる「劫」とは、一説に40里(約160キロメートル)立方の大岩に3年に一度天女が舞い降り、羽衣で岩をなで、その岩が摩耗するまでの単位で、「五劫」はその5倍です。「思惟」とは、心に考えを深くめぐらせることで、この場合、衆生救済のための四十八願を立てること。ヘルメットのような螺髪(らほつ=仏像の頭髪)は、伸びるに任せて積み上がった頭髪で、人間の想像を絶する長い時間、衆生のために考えに考え抜いた姿を現しています

五劫思惟阿弥陀仏

ー 童子のようなおだやかな顔立ち

「勧進帳」を手に大仏再興に奔走
1180年の冬、平氏の「南都焼打ち」によって、奈良の寺院の多くは壊滅的に焼失しました。東大寺も堂塔伽藍のほとんどを失い、大仏も焼け崩れてしまいます。翌年、大勧進職に抜擢されたのは、宋の文化や技術に詳しい重源でした。60歳を超えた重源は、寄付のための趣意書「勧進帳」をたずさえ全国を奔走します。能の「安宅(あたか)」、歌舞伎の「勧進帳」で武蔵坊弁慶が読み上げるのが、この勧進帳です。1185年の大仏開眼のあとも勧進は続き、1195年にようやく大仏殿が落慶しました。晩年の25年間を大仏再建に捧げ、五劫院を開いた重源は、1206年86歳の生涯を閉じました。

五劫思惟阿弥陀仏

ー 特別公開時は外陣から拝観できる

| 「勧進帳」を手に大仏再興に奔走

1180年の冬、平氏の「南都焼打ち」によって、奈良の寺院の多くは壊滅的に焼失しました。東大寺も堂塔伽藍のほとんどを失い、大仏も焼け崩れてしまいます。翌年、大勧進職に抜擢されたのは、宋の文化や技術に詳しい重源でした。60歳を超えた重源は、寄付のための趣意書「勧進帳」をたずさえ全国を奔走します。能の「安宅(あたか)」、歌舞伎の「勧進帳」で武蔵坊弁慶が読み上げるのが、この勧進帳です。1185年の大仏開眼のあとも勧進は続き、1195年にようやく大仏殿が落慶しました。晩年の25年間を大仏再建に捧げ、五劫院を開いた重源は、1206年86歳の生涯を閉じました。

五劫院の東、三笠霊園の坂を上り切った「伴墓(ともばか)」と呼ばれる墓所には、「火輪(かりん)」部分が三角錐になった珍しい「重源上人三角五輪塔」があり、奈良の町を見下ろしています。

五劫院_伴墓にある重源上人三角五輪塔

ー 伴墓にある重源上人三角五輪塔

| 江戸期大仏再興を果たした公慶上人の墓所

重源上人の大仏再建から370年余り経った1567年、松永久秀と三好三人衆の争いによる兵火に巻き込まれ、大仏殿は再び焼失、大仏の首は崩れ落ち、木造銅板による仮補修が行われました。1660年、13歳で東大寺に入った公慶上人(1648~1705年)が見たのは、100年近く雨ざらしの状態に置かれた大仏さまでした。1667年、お水取りの練行衆として参籠中の二月堂が火災で焼失するという惨事に遭遇、短期間での復興を目の当たりにした公慶は、打ち捨てられた大仏再建への気持ちを強めたのではないかといわれます。当初は支援に消極的だった江戸幕府を熱意で動かしながら、公慶もまた勧進に奔走、1692年、大仏開眼供養が盛大におこなわれました。

「南都大仏殿勧進帳」(1692年)部分 奈良県立図書情報館蔵

ー 「南都大仏殿勧進帳」(1692年)部分 奈良県立図書情報館蔵

重源のときと同じく、大仏開眼後も困難を極めたのが大仏殿の再建でした。さらなる勧進を続けていた公慶は、1705年7月に江戸で病没。なきがらは10日間をかけて奈良へ運ばれ、五劫院に葬られました。公慶上人大五輪塔は、その際に建立されたものです。再建事業は弟子の公盛に引き継がれ、1709年ついに大仏殿落慶供養が営まれました。その公盛も、中門の落慶を見届けたあと1724年に36歳で死去。公慶上人を慕うように右に立つのが公盛の五輪塔です。

寺内墓所の奥にある公慶上人大五輪塔

ー 寺内墓所の奥にある公慶上人大五輪塔

500年の時を隔てて行われた大規模な勧進。そのどちらが欠けていても、いまの奈良の風景はなかったかもしれません。時を惜しまず大仏復興に奔走した重源、公慶両上人の生きざまは、頭髪が伸びるのも構わず衆生の救済を考え続けた五劫思惟阿弥陀仏の姿と重なるようにも思えます。

東大寺の菩提所的性格を持つ五劫院の墓所入口には、衆生を気遣うようにふり返る石仏「見返り地蔵」があり、古くから信仰されてきました。五劫院と関係が深い京都永観堂の本尊も「みかえり阿弥陀如来」であり、東大寺別当を務めたことのある永観が、東大寺から背負って京へ持ち込んだと伝わることから、その関係性がしのばれます。

五劫院の見返り地蔵

ー 寺内墓所入口にある見返り地蔵も必見

◇五劫院へのアクセス
奈良交通バス 青山住宅方面行き「今在家」下車、東へ徒歩約3分(350メートル)

◇関連サイト

五劫院WEBサイト

◇主な参考資料
『特別展 東大寺公慶上人』奈良国立博物館 2005
『特別展 大勧進 重源』奈良国立博物館 2006
「奈良・五劫院の五劫思惟阿弥陀如来坐像」岩田茂樹 奈良国立博物館研究紀要『鹿園雑集』9号 2007
『大佛勧進ものがたり』平岡定海 吉川弘文館 2014

※2021年6月現在の情報です。

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