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2023.08.03

秋篠寺と伎芸天

綴る奈良

近鉄大和西大寺駅の西北1キロメートル余りの場所にある秋篠寺。今では複数の線路や幹線道路で分断されイメージしづらいですが、近くを流れる秋篠川を下ってゆけば、平城宮跡を対岸に見ながら、喜光寺、垂仁(すいにん)天皇陵、唐招提寺や薬師寺のある西ノ京エリアへとつながる位置関係です。

大和西大寺駅北口からバスで数分、住宅地のなかにこんもりとした森を残す秋篠寺の創建時の寺域は、現在よりかなり広かったようです。常緑樹が冬も木漏れ日をゆらす参道の両側には、かつて荘厳な伽藍が並び建っていました。しっとりとした苔庭に包まれるように、境内には奈良時代末期の礎石や古瓦が残されています。

ー 秋篠寺東門

ー 境内から見た東門

ー 金堂跡の美しい苔庭

ー 南門近くの東塔跡礎石

| 秋篠寺と秋篠の里

秋篠寺は奈良時代末期の780年頃、光仁(こうにん)天皇の勅願によって僧の善珠(ぜんじゅ)が創建したと伝わります。「秋篠の僧正」と呼ばれた善珠は、南都六宗のひとつ法相宗(ほっそうしゅう)の学僧としても名高く、興福寺南円堂に安置されている国宝 木造法相六祖坐像の一人です。

「秋篠」の名前は、この地に古くから居住した土師氏が改姓した秋篠氏にちなむとされます。土師氏は野見宿禰を先祖に持つとされる埴輪や土器の製作集団であり、秋篠の里のすぐ東にある佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳は、垂仁天皇の皇后 日葉酢媛(ひばすひめ)の陵墓として初めて埴輪を使った伝説を持つ古墳です。

平安時代の1135年、秋篠寺は兵火のために東塔と西塔、金堂など大部分の堂宇を焼失。明治の神仏分離令では南に隣接する鎮守社 八所御霊神社が分離されるにとどまらず、一時は無住寺になるなど、歴史の波に翻弄されてきました。現在はどの宗派にも属さず、山号も持たない単立寺院の立場を貫いています。

ー 秋篠寺東門からの参道奥に見える南門

ー  八所御霊神社と秋篠寺南門

| 国宝の本堂と「東洋のミューズ」伎芸天

苔庭の美しい参道を通り、受付を抜けると、白い玉砂利が敷かれた明るい境内が広がります。金堂の焼失以後、残った講堂が大修理を受け本堂として再興されました。鎌倉時代の建築になりますが、奈良時代建築の伝統を生かした伸びやかな姿で、国宝に指定されています。

ー 受付へ向かう参道

ー 国宝の秋篠寺本堂

ー 寄棟造の美しい本堂屋根瓦

本堂の細長い須弥壇には、美しい木肌に引き締まったお顔の薬師如来坐像を中央に、帝釈天、不動明王、日光菩薩、月光菩薩、十二神将、地蔵菩薩、そして有名な伎芸天(ぎげいてん)がずらりと並び、須弥壇の左右には愛染明王と五大力菩薩が安置されています。

土間床の堂内は、はじめ暗く感じるかもしれませんが、壁際に置かれた長椅子に座って静かに諸像と向き合っていると、鳥のさえずりや風の音が聞こえ、やがて広々とした空間があかるく感じられてきます。

ー 多くの芸術家が伎芸天に魅せられてきた

「東洋のミューズ(芸術をつかさどる女神)」とも呼ばれ、とりわけ人気の高い伎芸天は、頭部のみが天平時代に作られた乾漆造、体部は鎌倉時代に作られた寄木造です。伎芸天とはヒンドゥー教のシヴァ神(仏教の大自在天)の髪の毛の生え際から生まれたとされ、吉祥をもたらす福徳円満、諸芸成就の神として信仰を集めてきました。高さは約2メートルですが、土間床から直接見上げるため、ぐっと大きく感じられます。

伎芸天の正式名は「伝 伎芸天立像」。この像が作られた当初から伎芸天の名で呼ばれていたかどうかは定かではありません。しかし、材質を異にする頭部と体部を持ちながら、なんの違和感もないしなやかな姿や、少しかしげた首、剥落した瞼のまま、なお衆生を慈しむようなまなざしには、やさしさを兼ね備えた気品が充ちており、多くの人たちがこの像を伎芸天であると信じるのは、ごく自然なように思われます。

| 大元帥明王と常暁律師

本堂正面左手の立派な屋根の大元(たいげん)堂は、東門近くにある香水(こうずい)閣に向かって建てられています。縁起によれば平安時代初め、僧の常暁(じょうぎょう)は秋篠寺の井戸水に映った自分の影に、忿怒の姿の何者かが重なっているのを見つけました。その後、唐へ渡った常暁は、姿の主が国土を守護し、衆生を擁護する大元帥明王(たいげんみょうおう)であることを知ります。帰国した常暁は、秋篠寺の井戸水を汲んで大元法を修したとされ、毎年6月6日には、6本の腕を持ち、髪を逆立てた秘仏 大元帥明王の特別公開が行われます。

ー 大元堂(左)と開山堂

ー 東門近くの香水閣

| 秋篠寺を詠んだ歌人たち

秋篠の里、秋篠寺、そして伎芸天は、古今の歌人や俳人に詠われてきました。境内には、歌集『伎芸天』を著した川田順をはじめ、吉野秀雄、會津八一など近代の著名歌人の歌碑が点在しています。拝観時に配布されるリーフレットには、ほかに西行や高浜虚子などの歌や句も載せられており、秋篠寺や伎芸天が、多くの芸術家たちの創作の源となってきたことがよくわかります。

 諸々の み仏の中の 伎芸天 何のえにしぞ われを見たまふ  川田順

 贅肉(あまりじし)なき肉置(ししおき)の 婀娜(たをやか)に
 み面(も)もみ腰も ただうつつなし  吉野秀雄

 秋篠の み寺をいでて かへりみる 生駒が岳に 日は落ちむとす 會津八一

ー 開山堂の奥にある川田順歌碑

ー 受付の西奥にある吉野秀雄歌碑

ー 南門手前の木立にひっそり立つ會津八一歌碑

◇秋篠寺へのアクセス
近鉄大和西大寺駅北口下車、奈良交通バス「押熊」方面行きで「秋篠寺」下車すぐ。

◇関連サイト

秋篠寺

◇主な参考資料
『秋篠寺』秋篠寺
『西大寺 秋篠』近畿文化会 綜芸舎 1989
「週刊 古寺をゆく31 秋篠寺」小学館 2001
『伎芸天』川田順 東京堂 1918
『大和路・信濃路』堀辰雄 新潮文庫 1955

※2022年1月現在の情報です。