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2023.08.02

五條 榮山寺と国宝八角円堂

綴る奈良

今から1280年以上前の奈良時代 天平期の前半は、大地震や飢饉、そして疫病が次々と日本を襲う多難の時代でした。なかでも万葉集に「鬼病」と書かれ、国民の3割前後が息絶えたといわれる天然痘のパンデミックが猛威をふるったのは、最初の流行から3年目の天平9(737)年のこと。主要閣僚にあたる右大臣や参議ら8人のうち5人が亡くなるという未曽有の事態に、藤原不比等の息子として絶大な権力を握っていた武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の「藤原四兄弟」も相次いで命を落としました。

五條市にある榮山寺(えいさんじ)の「八角円堂」は、疫病で亡くなった藤原四兄弟の長子 武智麻呂の追善供養のため、その息子 仲麻呂が建立したといわれる国宝建築物です。建物の内陣には極彩色の装飾画がいまも残り、秋と春の特別拝観期間中に公開されています。

| 藤原南家と榮山寺

ー 「音無川」と呼ばれた吉野川と栄山寺橋

JR和歌山線の五条駅から東へ2キロメートル余り。古い町並みを抜けて国道24号線から分岐する五條吉野線に道をとり、栄山寺橋の赤いアーチを右手に見ながら吉野川沿いを東進してほどなく姿をあらわすのが、真言宗豊山派学晶山 榮山寺です。寺伝によると養老3(719)年に藤原武智麻呂が創建したこの寺は、同じく武智麻呂に始まる藤原南家(なんけ)の菩提寺として鎌倉時代まで栄華を誇りました。南北朝時代には後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇の行在所(あんざいしょ=仮のすまい)でもあったことから、国の史跡「栄山寺行宮(あんぐう)跡」にも指定されています。

ー 2021年落慶法要が営まれた榮山寺西門

榮山寺は当初、前山(さきやま)と呼ばれた山のふもとにある川の瀬に張り出した崎に位置することから、「前山寺(崎山寺)」と呼ばれました。平安時代にはすでに「榮」の字があてられ、音読みで現在のように「えいさんじ」と呼ばれていたようですが、吉野川を往来して吉野杉などを運搬する筏師たちは、昭和の初め頃までこの近辺で宿をとることを「サキヤマ泊り」と呼んでいたそうです。

ー 「大和名所図会」榮山寺と吉野川の筏流し 奈良県立図書情報館蔵

筏流しが行き来する様子は、「大和名所図会」(1791年)にもいきいきと描かれています。図会には、吉野川の中でも特に榮山寺周辺だけが「音無川(おとなしがわ)」と呼ばれていたことも記されています。名前の由来は平安時代、榮山寺で修行していた弘法大師が激しい川音を聞き、経を唱えて(あるいは筆を投げ入れて)その音を止めたためなのだとか。真相はさておき、紀州を経て大洋にそそぐ吉野川の滔々とした流れは、この場所が古くから交通の要衝であったことを改めて教えてくれます。

| 藤原仲麻呂と八角円堂

右大臣武智麻呂を筆頭とする藤原四兄弟が疫病に倒れたあと、政権は生き残った参議 橘諸兄(たちばなのもろえ)の手に移り、武智麻呂の息子 仲麻呂のいとこである藤原広嗣の乱や、聖武天皇による恭仁京(くにきょう)への遷都などが相次ぎ、国政が混乱する中752年には東大寺大仏が開眼。武智麻呂の息子である仲麻呂は、叔母にあたる光明皇太后を後ろ盾に756年頃から藤原氏の権力を取り戻し、恵美押勝(えみのおしかつ)の名を与えられて絶頂期を迎えます。

ー 境内東奥にある八角円堂

そんな仲麻呂が父母を追善供養のために八角円堂を建立したのは、頼みの綱であった光明皇太后の亡くなった760年から、自らが没する764年までの間だと考えられています。その期間はまた、仲麻呂が孝謙天皇(聖武太上天皇と光明皇太后の娘)と対立を深め、自ら起こした反乱に敗北して斬殺されるまでの4年間でもありました。父の死から20年以上の月日を経て最高の地位に上り詰めた仲麻呂は、その権勢に翳りが見え始める中、どのような思いで八角円堂の建立を進めたのでしょうか。

戦国時代には一度、八角円堂以外のすべての堂宇を焼亡した榮山寺。その八角円堂も明治初期には茅葺屋根となり、1910年代の大修理で建立時の瓦葺に推定復原されるなどの変遷を経てきました。1948年に八角円堂を調査研究した国立博物館附属美術研究所の報告書には、この堂が構造の妙と形式の美の保存の良さなどから日本建築史上極めて重要な遺構であり、内部の装飾画は絵画史上すこぶる貴重な価値を有する旨が記されています。近年、残念ながら装飾画の剥落は進んでいますが、武智麻呂も愛でたであろう極彩色の仏画を肉眼ではっきりと見つけることができます。

ー 明治末に茅葺から瓦葺に復原された屋根

| 国宝の梵鐘など多くの文化財を持つ榮山寺

現在の榮山寺には、国宝八角円堂のほかにも数多くの文化財があります。西門を入ってすぐにある青銅の梵鐘も国宝で、銘文は百人一首などで知られる小野篁(おののたかむら)の孫であり書聖といわれた小野道風(とうふう)によるもの。ほかにも本堂の木造薬師如来坐像と木造十二神将立像、本堂前の石灯籠、奈良時代の七重石塔(石塔婆)など、重要文化財が境内に並びます。さらに平安時代から江戸時代までの寺領に関する文書や後亀山天皇の綸旨(りんじ=みことのり)を含む「榮山寺文書(もんじょ)」107点は、古代から近世に至る寺院や地域の貴重な史料として奈良県の有形文化財に指定されています。

ー 鐘楼内の「梵鐘」は小野道風銘文のある国宝

ー 榮山寺本堂と重要文化財の「石灯籠」

ー 室町時代の「塔の堂」前にある「七重石塔」も重要文化財

| 裏山の絶景と武智麻呂の墓

ー 榮山寺裏山の展望台から見える五條の町

奈良市北部の佐保山で火葬された武智麻呂の墓は、八角円堂建立時に榮山寺の裏山(前山)に移されたと伝わります。寺の東隣にある榮山寺緑地公園の駐車場から山道を20分ほど登り、展望台からさらに数分舗装された道を北へ進み、獣避けのフェンスを開けて柿畑の向こうに見えるこんもりとした森が「史跡 藤原武智麻呂墓」です。山道には丸太の階段がつけられていますが、歩きやすい格好で、暗くなる前に必ず下山できるよう時間に余裕を。吉野川と五條の町が一望できる展望台からの眺めは特に爽快です。

ー 史跡 藤原武智麻呂墓

◇関連サイト

学晶山 榮山寺

◇アクセス
JR五条駅から東へ徒歩約30分(2.2キロメートル)

◇主な参考資料
『榮山寺八角堂』美術研究所編 国立博物館 1950
『榮山寺八角堂の研究』福山敏男、秋山光和 京都便利堂 1951
『日本の歴史④天平の時代』栄原永遠男 集英社 1991
「特別展 栄山寺十二神将展」五條市文化博物館 1996
『天皇の歴史02巻 聖武天皇と仏都平城京』吉川真司 講談社 2011

※2021年9月現在の情報です。